50代の節目に、自分の「正しさ」を見直す

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人生の折り返し点で立ち止まる

人生の折り返し地点、50代になりました。これまで積み重ねてきた経験や信念は確かに私の財産です。でも同時に、「それって本当に正しいのかな」「その善意、どこか上から目線になってない?」と自分に問いかけるのにぴったりの時期かもしれません。

年を取るにつれて、気づけば自分の価値観を絶対的なものと思い込み、知らず知らずのうちに他人を判断していることってありますよね。それは「長年の経験からくる知恵」として周りから認められることもありますが、新しい考え方や柔軟さを失うきっかけにもなっているんです。

先日、ある言葉に出会って、ハッとさせられました。

親切、見返りを求めた瞬間、それは欲望になる。
正義、他者をさばくことに変わると、怒りと対立を生む。
努力、承認されたい欲求に支配されると、執着になる。

現代風の表現ですが、空海(弘法大師)の教えとすごく重なるんですよね。空海は仏教の密教的な視点から、「何をするか」より「どんな心でするか」が大切だと教えてくれています。この記事では、この三つの視点から、50代という節目で「自分の正しさ」について考えてみたいと思います。

「親切」って、本当は何だろう?

空海さんの「三輪清浄」の教え

空海は「三輪清浄(さんりんしょうじょう)」という考え方を教えてくれています。何かを誰かに与える時、「与える人・受け取る人・与えるもの」のどれにも執着しちゃダメだよ、というんです。どんなに素敵な親切でも、「ありがとうって言ってほしいな」「感謝されたいな」という気持ちが混じると、それは本当の親切じゃなく、自分の満足感を得るための行為になっちゃうんですよね。

「見返り」を期待している自分に気づく

私も、誰かのために何かしたのに「ありがとう」が返ってこないとちょっとガッカリしたり、「あの人、ちょっと感謝の気持ちが足りないよね」なんて思うことがあります。正直に振り返ると、その時点ですでに「見返り」を期待していたんだなと気づきます。

例えば、職場の後輩に仕事のコツを教えた時、「さすが!助かります」って言ってもらいたかったり、家族のために頑張って料理を作ったのに「おいしい!」って言ってもらえないとモヤモヤしたり。こんな小さな期待が、実は「純粋な親切」から遠ざけているのかも。

空海さんの教えは、「なんのためにやってるの?」って優しく背中を押してくれるんです。本当の親切って、相手が喜んでくれるかどうかに関係なく、ただ与えることなのかもしれませんね。

「正義」が人を分断するとき

「正しさ」って、どこから来るの?

「私は正しい」「あれは間違ってる」と思い込む時、その判断の根拠って本当に誰にでも通用するものなのでしょうか。空海は『十住心論』という著作で、心の成長段階を10段階に分けて説明しています。面白いことに、初めの頃の段階では「自分中心の正義感」が強く、それが知らず知らずのうちに他の人との対立を生んでしまうと教えているんです。

今の社会での「正義の暴走」

今の時代、SNSを見ているとさまざまな「正義」があふれていて、時には激しい対立になっていますよね。環境問題、人権問題、政治的な考え方…どれも大切なことなんですが、それを主張するあまり、違う考えの人を否定したり排除したりすると、目指していたはずの「より良い社会」からどんどん遠ざかってしまいます。

私も、環境問題に取り組んでいた時期、違う優先順位を持つ人たちを「無関心な人たち」と批判していました。でも今思えば、相手の状況や価値観を理解しようともせず、一方的に「私の考えが正しい」と押し付けていただけだったかもしれません。

正義のつもりが、実は単なる自分の価値観の押し付けだったり。誰かの欠点を指摘することで、無意識のうちに「私って意識が高いでしょ」と自分を高めようとしていたり。こんな「正義の暴走」に自分も知らず知らず加担していないか、立ち止まって考えることが、人間関係を深め、社会の一員として成熟するための第一歩になると思うんです。

「努力」と「執着」の境目

「認められたい」気持ちに振り回されていない?

頑張ることは素晴らしいことですよね。でも、その頑張りが「誰かに認めてもらいたい」「評価されたい」という気持ちに支配されているとしたら、どうでしょう?空海さんの言葉を借りると、それは「名利(みょうり)を求める修行」で、結局は煩悩の別の形にすぎないんですよね。

今の時代、「評価」に縛られすぎ?

今の時代、資格を取ったり、昇進したり、SNSで「いいね」をもらったり…私たちの努力の先には、よく「誰かに見られる自分」「評価される自分」がいます。でもそれって、心の自由を奪って、いつも何かに追われるような疲れた生き方につながることもあるんです。

50代の今、振り返ってみると、20代や30代の頃は出世やキャリアアップのために、家族との大切な時間や自分の心の安らぎを犠牲にしていた時期もありました。確かに「努力」はしていたけど、今考えると「周りから認められたい」という欲求に突き動かされた、ある種の執着だったのかもしれません。

空海さんは、修行は内面を成長させるためのものであって、他人からの評価や結果を得るためじゃないよ、と何度も教えています。努力の価値は、結果よりも「なぜそれをするのか」という気持ちの中にある。空海さんの言葉からは、そんな静かなメッセージが聞こえてくるような気がします。

「無心」を実践する:50歳からの新しい冒険

毎日の生活で「無心」を探してみる

空海さんは、無心の状態こそに本当の力が宿ると教えてくれました。じゃあ、忙しい今の生活の中で、この「無心」ってどうやって実践できるんでしょう?

最近、私は朝の散歩や家事の時間を「何も求めない時間」として過ごすようにしています。散歩なら、「どこそこまで行こう」と決めずに、ただ足の向くまま歩いて、目に入る景色を楽しむ。家事なら「早く終わらせなきゃ」という焦りを手放して、掃除や料理そのものに集中する。こんな小さな実践が、少しずつ心の状態を変えていくように感じています。

人間関係でも「無心」でいられたら

人間関係でも同じことが言えます。「この人から何か得られるかな」「この人に良く思われてるかな」という思いを一旦横に置いて、目の前の人との会話そのものを大切にする姿勢を意識しています。相手の話を「そうそう」「違うよ」と判断せずに、ただ「聴く」こと。自分の話が「どう思われるかな」と気にせず、素直に伝えること。そんな関わり方の中に、空海さんが教えてくれた「無心」のヒントがあるような気がしています。

最後に:心の中の灯りを灯す

「不言実行」カッコいい言葉より実際の行動、外見よりも内側の気持ち。そして何より「なぜそれをするのか」という動機こそが、その人の本当の姿を表すんだなと思います。

50歳からの人生は、これまでの「成果」を自慢するんじゃなくて、その成果を生み出してきた「動機」や「心の持ち方」を見つめ直す旅なのかもしれません。正しさや善意のフリをした欲や自惚れを手放して、静かに、素直に、周りの人を照らす灯りになる。

空海さんは「即身成仏」という言葉で、今このときの生き方そのものが仏道なんだよと教えてくれました。特別な修行をしなくても、日々の暮らしの中での心の持ち方、行動の純粋さを通して、自分と世界が調和するような生き方ができるのかもしれませんね。

そんな生き方を、これからの自分の指針にしていきたいと思います。50代という節目に立って、ここまでの自分に「ありがとう」と言いながら、新しい心の冒険を始める時が来たんだなと感じています。

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